今回の年末のイタリア家族との日々もそうでしたが、我ながら今まで生きてて随分いろんなタイプの、そしていろんなグレードの我慢を体験してきたなあ、と思ってます。
で、それでもまだ飽き足らず、更なる我慢が私に挑戦状を投げつけてくるわけですよ。
例えばね、
12月22日にイタリアの郵便局から「一番早くて一番確かな」方法で送ったはずの、漫画原稿38枚がまだ届いてなかったり。
もう3週間すぎましたけどね。
調べてみたらPC上では10日の時点でミラノで「処理中」。
あ、そうですか。
へえ~
締め切り1月10日だったんですけどね~
ほお~
・・・どころじゃないよっ!!!え!?!どういうことだい、これはいったい全体!!?
昨日姑と電話で喋ってて、あまりの腹立たしさ鼻水涙声で怒りを訴える私を気の毒に思ったのか、なんだかあの手この手で私の原稿を追跡してくれたようなんです。
姑「こういう郵便があるはずだから確認してくれ」
郵便局「それはここでは分かりかねます」
姑「もしその郵便物に爆弾が仕掛けてあるって言ったら?」
郵便局「えっ!?」
姑「もしそれを触れた人すべてが感染する猛毒ウィルスが仕込まれてたらどうすんだい!?」
郵便局「・・・」
・・・というやり取りがあって、結局最終的に調べられたというのですが。
彼女いわく10日にはもう日本へ向けて発ったと。
PC上ではまだ「Milano」になってますけどね。
全然信じられません。イタリアの郵便事情、はっきり言ってどうしようもないですよ。
経済先進国でこの有様、もう恥を知れって感じで、腹立たしさもここまできたら漫画のネタにもできやしない。
しかしこの腹立たしさを抱えて何日も過ごすのはあまりに重たく、そして過酷です。
だから何か、「原稿が届いてないくらいなにさ、締め切り過ぎたからってなにさ」という開き直れる何かが必要になるわけですね。
お友達が紹介してくれたサイトを見たら、メキシコで郵便物が紛失したという情報がテンコ盛りでてたりして。そっかあ~まだなくなってないだけいいのかあ~ と思ってみる。
うん、でもまだ軽くならないですね。自分よりグレートの高そうな苦労話を聞いても効果なし。それくらいショックがでかかったってことですね。
子供の頃に大好きだった絵本を読んで心を癒す作戦を試みてみました。
「ちびくろおじさん」
今から50年前のイタリア人作家Renato Rascelのものですが、ここに出てくる「とてもちいさなくろいおじさん。しらないひとはくろんぼの子どもかとおもいました。でもまちがいなく しろんぼの おとな」である、l孤独なピッコレット叔父さんに私は惚れこんでいたのです。
ちいさくて、煙突掃除夫で、煤で真っ黒で、ひとりぽっちで、ふくろうと猫の友達しかいない。
1950年代、イタリアでは共産党が活性化してた時期ですから、しぜんと絵本もその影響をうっすら仄めかせてしまうのでしょうが、未だにこのお話も絵も大好きですね。
で、ここで私はとあることに気がついたのです。
私の異性を好きになるポイントが、どうもこのピッコレットさんに由来する部分がでかいんじゃないかってことを!
ちなみに私が小学校だった時に好きだった人気者達は以下の通りです。
それから大人になってからも好きになる異性への、根本的理想みたいなのはあまり変わってないですね。
理想というより、自分に「合いそう」なタイプってんでしょうか。(あとチューリップハットはポイント高い)
生活力は無くてもいい。
社会性ゼロ。
だけどセンチメンタル。
詩人。
面倒を見てあげなければどにかなってしまいそう。
華奢である。
早死にしそう。
または行方をくらましそう。
トムとジェリーに関してのトムは、これちょっと例外かもしれませんが、こいつのいざとなったときの弱さや脆さ、情けなさ、やさしさ(アヒルのお母さんになってあげたりね)っていうのが私の子供心を射抜いてやみませんでした。バカなんだけど、一生懸命それなりに社会性を持とうとするけなげさもなんとも言えないというか。
まあ、いい。
そう、こうして確認していくうちに私はとあることを改めて自覚したのです。
私は苦労症なんだ。ということを。
絶えるのが私の性なのだということを。
それでも原稿への腹立ちは収まらず・・・
で、それでもまだ飽き足らず、更なる我慢が私に挑戦状を投げつけてくるわけですよ。
例えばね、
12月22日にイタリアの郵便局から「一番早くて一番確かな」方法で送ったはずの、漫画原稿38枚がまだ届いてなかったり。
もう3週間すぎましたけどね。
調べてみたらPC上では10日の時点でミラノで「処理中」。
あ、そうですか。
へえ~
締め切り1月10日だったんですけどね~
ほお~
・・・どころじゃないよっ!!!え!?!どういうことだい、これはいったい全体!!?
昨日姑と電話で喋ってて、あまりの腹立たしさ鼻水涙声で怒りを訴える私を気の毒に思ったのか、なんだかあの手この手で私の原稿を追跡してくれたようなんです。
姑「こういう郵便があるはずだから確認してくれ」
郵便局「それはここでは分かりかねます」
姑「もしその郵便物に爆弾が仕掛けてあるって言ったら?」
郵便局「えっ!?」
姑「もしそれを触れた人すべてが感染する猛毒ウィルスが仕込まれてたらどうすんだい!?」
郵便局「・・・」
・・・というやり取りがあって、結局最終的に調べられたというのですが。
彼女いわく10日にはもう日本へ向けて発ったと。
PC上ではまだ「Milano」になってますけどね。
全然信じられません。イタリアの郵便事情、はっきり言ってどうしようもないですよ。
経済先進国でこの有様、もう恥を知れって感じで、腹立たしさもここまできたら漫画のネタにもできやしない。
しかしこの腹立たしさを抱えて何日も過ごすのはあまりに重たく、そして過酷です。
だから何か、「原稿が届いてないくらいなにさ、締め切り過ぎたからってなにさ」という開き直れる何かが必要になるわけですね。
お友達が紹介してくれたサイトを見たら、メキシコで郵便物が紛失したという情報がテンコ盛りでてたりして。そっかあ~まだなくなってないだけいいのかあ~ と思ってみる。
うん、でもまだ軽くならないですね。自分よりグレートの高そうな苦労話を聞いても効果なし。それくらいショックがでかかったってことですね。
子供の頃に大好きだった絵本を読んで心を癒す作戦を試みてみました。
「ちびくろおじさん」
今から50年前のイタリア人作家Renato Rascelのものですが、ここに出てくる「とてもちいさなくろいおじさん。しらないひとはくろんぼの子どもかとおもいました。でもまちがいなく しろんぼの おとな」である、l孤独なピッコレット叔父さんに私は惚れこんでいたのです。
ちいさくて、煙突掃除夫で、煤で真っ黒で、ひとりぽっちで、ふくろうと猫の友達しかいない。
1950年代、イタリアでは共産党が活性化してた時期ですから、しぜんと絵本もその影響をうっすら仄めかせてしまうのでしょうが、未だにこのお話も絵も大好きですね。
で、ここで私はとあることに気がついたのです。
私の異性を好きになるポイントが、どうもこのピッコレットさんに由来する部分がでかいんじゃないかってことを!
ちなみに私が小学校だった時に好きだった人気者達は以下の通りです。
それから大人になってからも好きになる異性への、根本的理想みたいなのはあまり変わってないですね。
理想というより、自分に「合いそう」なタイプってんでしょうか。(あとチューリップハットはポイント高い)
生活力は無くてもいい。
社会性ゼロ。
だけどセンチメンタル。
詩人。
面倒を見てあげなければどにかなってしまいそう。
華奢である。
早死にしそう。
または行方をくらましそう。
トムとジェリーに関してのトムは、これちょっと例外かもしれませんが、こいつのいざとなったときの弱さや脆さ、情けなさ、やさしさ(アヒルのお母さんになってあげたりね)っていうのが私の子供心を射抜いてやみませんでした。バカなんだけど、一生懸命それなりに社会性を持とうとするけなげさもなんとも言えないというか。
まあ、いい。
そう、こうして確認していくうちに私はとあることを改めて自覚したのです。
私は苦労症なんだ。ということを。
絶えるのが私の性なのだということを。
それでも原稿への腹立ちは収まらず・・・
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by dersuebeppi
| 2007-01-14 21:56