ローマ属州イタリカ つづき
2008年 04月 01日
たった4日間旅行に行っただけなのに、何なんだ、この溜まりに溜まった仕事は!?
という状況の中で迎えた4月・・・ 今月また私は一つ年を重ねねばならんです・・・
時間経つの早過ぎ。
スペイン南部セビリア近郊の古代ローマ遺跡、「イタリカ」の続きです。
イタリカはもともと、第二次ポエニ戦争で戦ったローマ人退役兵のために将軍スキピオ・アフリカヌスが設計した街なので、ここに入植したもともとの人達は皆イタリア生まれのローマ人だったそうです。
だからここ出身の2人の皇帝トライアヌスもハドリアヌスももともとはイタリア半島の血の人間。
ハドリアヌスに関してはその名前からも把握できるようにアドリア海沿岸のハドリアという街出身の家系だったようです。
気候も温暖、海もさほど遠くなく、肥沃な大地。豊かな自然。
この素晴らしい環境の中で皇帝ハドリアヌスは10歳までのびのびと育ちますが、父は彼が10歳の時に既に亡くなってしまいます。その後同じイタリカ出身でハドリアヌスの後見人であり、ローマに暮らすトライアヌスに引き取られたハドリアヌスはイタリカとは大違いの大都会で教育をされることになりました。
ハドリアヌスはもともと利発な少年だったので首都ローマでもそれなりに適応できたんでしょうが、この時期からギリシャ文化に執拗に入れ込んでしまい(要するにギリシャオタクという雰囲気だったんでしょう)、それを「軟弱だ」と解釈したトライアヌスによって14歳の時に再びイタリカに戻されてしまうんだそうです。
その後また17歳でローマへ戻り、以降ハドリアヌスがイタリカの地に戻ることは二度と無かったそうですが・・・
今、実は日本から「篤姫」を録画して送ってもらってまして(突然話は変わりますが)、こう一国の要に繋がる血を引いて生まれてきた人ってのは、ほんとにある意味我々が一生感じる必要のないような決断や運命に逆らえない諦めみたいなものを強いられて本当に大変だなあ、と思って見てます。
ハドリアヌスも「後ろには戻れない一本道」を意識してその生涯を貫いたのでありましょう。
篤姫の鹿児島訛りじゃないですけど、ハドリアヌスも終生ヒスパ二ア訛りが言葉から抜けることなく、周囲から揶揄されてたそうで。
ところでハドリアヌスといえばギリシャオタクだっただけでなく、建築家としてもその才能を発揮した人ですが、ここイタリアの下水道も彼自身によって設計されたものだそうです。
1800年ほど前に既にこの下水管・・・(脇にパピルスが生えてました)。
ハドリアヌスについてはこちらで詳しくご覧になれます。
イタリカを堪能した我々はセビリアのホテルへ戻ったわけですが・・・
このホテルでちょっとした「一騒動」がございました。
良い気分に酔いしれて。一休みしようと思ったのに部屋のカードキーが使えない!
なんで?
磁気がダメになったのかと思ってフロントへ行ってみると、なんとそこで飛んでも無いことを言われてしまったのでした・・・・
詳細はつづく。
by dersuebeppi
| 2008-04-01 17:09