久々の投稿:「2人のローマ教皇」
2020年 03月 02日
昨日は下高井戸の映画館で「2人のローマ教皇」(The Two Popes)を観た。

これは映像ストリーミング会社であるNetflixによるオリジナル作品なので、配給会社による宣伝があちこちでなされたわけではないからきっとご存知ない方も多いと思う。Netflixに登録している人であればいつでも見られる作品なわけだが、私としてはやはり大きなスクリーンで見てみたかったので、映画館での公開は嬉しかった。
監督は「シティ・オブ・ゴッド」などの作品で知られるブラジル人監督フェルナンド・メイレレス。

一緒に観に行った漫画家とり・みき氏から世田谷線の電車の中でNetflixの作る映画の方向性や特徴などについての説明を受けたが、実際、映画というものの本来のあり方、そして産業化が加速する段階で映画が失ってきたもの、実在の人物を演じるとは何なのか、史実とフィクションの織り込み方など、ありとあらゆることを考えながらの鑑賞になった。
ジョナサン・プライスもアンソニー・ホプキンスもそれぞれの教皇を見事に演じているのだが、彼らの佇まいからは現実とフィクションとの境界線への意識が感じられた。それこそ、クオリティの高い役者でなければ醸し出せない“演技力”というものなのかもしれない。
そっくりその役になりきりながらも、役者たちがそれぞれのインテリジェンスを表現に昇華させて、観衆の知る実在の人物や実際のエピソードと原作との狭間を、しなやかで頑丈な絹糸のように織り込んでいる。
いい映画というのは良い役者が良い演技をしている映画、という捉え方もできるわけだが、この作品はまさにこの二人の登場人物の対話のみで構成されているので、そういった意味でも久々に極上の映画を見たという感覚に浸ることができた。
もちろん日本のようにローマ教皇そのものが何なのかそれほど知識が浸透していない国においては、その概要を知る上でもおおいに役にたつだろうし、何よりこの二人の国籍が、たまたまドイツとアルゼンチンという、歴史も国民性も文化も異なる要素を携えたバックグラウンドだという点に、さりげなくもしっかり、抜かりなく着眼しているのも小気味良い。ホルヘ・マリア・ベルゴリオ(現教皇)のアルゼンチンでの軍事独裁政権下における記憶の回想シーンも、当時のアルゼンチンの有様を、それはそれでもう一つの映画作品として捉えられるような味わい深い演出になっていたのも印象的だった。

あえて被写体を中心に置かない空間を生かした映像の切り取り方のセンス。突然微妙な揺れが固定されてフォーカスが絞られるカメラウォーク。3Gとはとても思えない見事なバチカン市国やサン・ピエトロ寺院の再現、スペイン語、英語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語が入り混じってもなんら違和感のない言語処理。ABBA、メルセデス・ソウザ、タンゴからフォルクローレ、クラシックにポップスといった様々な音楽の取り込み方も秀逸。
様々な忖度でがんじがらめにならない作品にはやはり潔くてポジティヴなパワーがある。
ドキュメンタリー的要素に潜むドラマティックさをユーモラスという良い舌触りのオブラートに包んで観衆の意識に浸透させていくテクニックも満遍なく駆使されているのだが、それも爺さんの言動ならではの自然さで、取って付けたようなやり過ぎ感が感じられなかったのも勉強になった。
オフィシャル・トレイラー1
オフィシャル・トレイラー2