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 イタリアの生んだ世紀の物理学者にエンリコ・フェルミという人がいます。この人は放射性元素の発見で1938年のノーベル賞を受賞、妻がユダヤ人であったためムッソリーニの弾圧から逃れてアメリカに亡命し、赴任先のシカゴ大学で世界最初の原子炉「シカゴ・パイル1号」を完成させ原子核分裂の連鎖反応の制御に史上初めて成功させたという人物でもあります。

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 数年間に渡ってシカゴ大学と拘わりを持った事がきっかけとなって、私はこの物理学者の存在や彼と放射線、そして原子爆弾との繋がりについてを知るに至ったわけですが、実は今年の夏に日本に帰国した折に宮崎駿監督の「風立ちぬ」を見ている間中思い出していたのが、このフェルミという人物でした。
 
 方や飛行機のエンジニア、もう一人は物理学者ですから一件なんの拘わりもないように見えますが、お互いただ大好きで突き進めていた開発や研究(まあフェルミの場合は見付け出してしまった物が破格にとんでもなかったわけですが……)が戦争という辛辣な運命の顛末に巻き込まれて行くという点が相似しているように思えたからです。
 
 なので、ベネチア映画祭で「風立ちぬ」が上映されると知った時、フェルミという人物を生んだイタリアがこの作品の主人公をどう見るか、総体的にどんな批評がなされるのかという事に個人的にはとても興味がありました。

 ちなみにイタリアでは結構田舎でも宮崎アニメの認知度は高く、私の周りにも家族を含めて沢山のファンが居ます。普段アニメの類いは決して見ないうちの姑ですら舅から見せられた『紅の豚』を未だに「アレはよかった」と繰り返すくらい、宮崎駿の作品は他のヨーロッパの人種よりも殊の外イタリア人の心に届く何らかの要素があるようです。
『紅の豚』に関してはアドリア海が舞台になっているという理由もあると思いますが、それ以外の作品でも高い評価を得ているのは、やはり宮崎駿という作家であると同時に“モノ作り職人”としての妥協の無い仕事をそこに認めることができるからなのでしょう。
 
 古代ローマの時代から、究極の人間技を発揮した完成度の高い創作品に感心したり感動したりするのが大好きなイタリア人。それは彫刻や絵画のような美術であったり、音楽や映画のような瞬間芸術であったり、またはフェラーリやオリヴェッティのようなテクノロジー関連であったり、または物理や天文学といった科学的な発展への携わりも含めて、「センスと集中力とファンタジーの生き物」である人間性が潔く確立化したものであれば、真っ向からそれを評価しようとする姿勢がこの国の人達にはあるのです。宮崎駿のアニメーションが高く評価されるのは、こうした彼らの審美眼に氏の作品が十分叶っているからに違いありません。しかも「風立ちぬ」ではイタリア人の誇りでもある航空機エンジニア・カプローニが日本人である^主人公の“憧れの人”として登場するわけです。
 
 そういった意味から、日本では様々な論議を醸した作品ではあったとしても、先述のフェルミという存在の認識の免疫も含めて、イタリアではどう受け止められるか、今までの宮崎作品と向き合うのとはワケが違うという前フリは日本での公開時からイタリアでもメディアで伝えられていたので、今回の映画祭でのプレミア上映に関しての記事を読むのがちょっと楽しみでもありました。

 しかし、この映画祭のタイミングで宮崎駿の引退が発表されてしまった為、イタリアの各メディアは「風立ちぬ」の論評よりもまず「これがミヤザキ最後の作品」だの「“生きねばというコンセプト、ミヤザキの引退理由が健康と関係のあらん事を”」などといった見出し一色状態。中身も「やはりサヨナラを示唆してつくられた作品だったのか」という“最後の作品フィルター”が掛けられた内容のものが大多数で、これではイタリア人が得意とする作品に対する真っ向な容赦のカケラも無い大胆な考証がなされた批判に全く辿り付けません。

 やっと一つの新聞の批評がエンリコ・フェルミを引き合いに出していましたが、それも引退のネタを抜いた全体の三分の一程度の記述の中に一行だけ「主人公ジローの立場は我々もよく知っている物理学者にも思い当たるところだが」と言うような案配で書かれている程度。せっかくだから、フェルミを連想したこの記者の見解をもっともっと読みたいところではあったのですが…
残念。
 
 まあ確かに、彼らにとっても失うには惜しい貴重な文化人が制作をもう続けないと言っているのですから、作品の内容よりも「ミヤザキ引退」が大事件であったことは間違いありません。なので今はただこの寂しさにやり場の無くなった騒ぎが治まり、イタリアの宮崎ファンの諦めが鞣された頃に、誰かが面白い「風立ちぬ」評を書いてくれるであろう日を待ってみるしかなさそうです。 
 
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by dersuebeppi | 2013-09-03 06:29