親善人形とわたくしの爺様

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只今わたくしは来年1月に発売される講談社のBeth8号の、津原泰水さんの連載小説「人形がたり」用イラストを製作中ですが、今回は昭和2年にアメリカから日本に運ばれた親善人形がテーマでだそうです。
親善人形というのは、要するに「青い目をしたお人形は~」のお人形のことでございますね。
日本に13000体ちかく、しかも全員パスポート付きでアメリカから送られてきて、全国の小学校に配られたんだそうです。

ときにアメリカは大恐慌時代。
迫り来る不安は西海岸を中心に日本人労働者の排斥と執拗な排日運動にと変化していきました。そうした中で金融不安と政情不安の責任を日本人に転化してはならないと考えたた宣教師・シドニー・ルイス・ギューリック氏(20年の在日経験あり)が提唱し、両国の親善を願ってアメリカの人形を日本へ送ることにしたのでした。
そしてそのお返しに日本からも市松人形などがアメリカに贈られたそうです。

しかし、このアメリカ親善人形は第二次世界大戦で「鬼畜の国からの贈り物」ということで、わざわざ竹槍で刺されるなど無残な方法でも処分され、現在では全国で300体ほどしか残っていないんだそうです。

人形を竹槍で差すという徹底振りが凄まじいものを感じさせますが。

ところでこの親善人形のことをいろいろと調べながら、私はふとその時代、10年間アメリカのサンフランシスコとロスで東京銀行の社員として駐在していた母方の祖父のこと思い出してしまいました。
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早速今年の夏に実家へ戻った時コピーした祖父のパスポートを引っ張り出してきていろいろ確認してみると、渡米したのは1918年となっています。
帰ってきたのが10年後となると、ちょうどその親善人形が日本の小学校に向けて送られてきたあたりになる計算です。
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私が祖父の過去に具体的な興味を持つ前に亡くなってしまったので、今更その当時の事情などいろいろと聞き出すことも出来ないのですが・・・ 
恐慌の煽りなどがあったのでしょうか。

なにはともあれ、大学出たてのホヤホヤで渡米してから10年目に帰国した祖父は徹底的にアメリカナイズされており、祖母と結婚して移り住んだ鵠沼の家も純和風家屋でありながら、椅子とテーブルにトーストとオートミールを朝食に食べるような生活をしてたらしいです。
だからそんな祖父にとって第二次大戦ってのはかなり悲劇な展開だったようです。

これは母から聞いたことですが、親善人形が槍で刺されて処分されてた頃、祖父はアメリカで買いためたレコードのコレクションを蓄音機ごと風呂の釜で燃さねばならなかったそうで、その火で沸かした湯船に浸かりながら「ああ~今日は音楽風呂だ!」とやけっぱちになってたんだそうです。
でも実は何枚かこっそり残してはいたみたいで、それは未だに母の手元に保管されてます。

それにしても、93歳で亡くなるまで、ほんっとに古き良きアメリカでのことを色褪せさせずに思い続けていた人でありました。
亡くなる直前でしたが、私の学校の友達が電話を掛けてきて祖父がそれを受け、私がその時所在していた場所の電話番号を「ジロ(ゼロ)、スリー、ファイヴ、・・・」という風に英語で伝えたそうで、後でその友達に「マリの家に電話したら変な人が出た」と言われたこともありました。

あと、戸田得志郎はかなりの情熱派でもあったようで、亡くなってから発覚したんですが、アメリカに住んでいる間はロシア人のダンサーのお嬢さんとお付き合いしていたらしく、几帳面に彼女のポートレートとやり取りしていたお手紙がぴっちりと張られたアルバムが出てきました。

後藤新平が外務大臣を勤めていた頃に発行された、大判サイズの仰々しいパスポートによると渡米時正確には23歳と3ヶ月。
駐在していた10年の間一度も日本に帰らなかったそうですから大した染まりっぷりっだったに違いありません。
帰国後の日本への適応も相当に苦労したんじゃないかと思います。
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我が家の人間が海外に移り住むことに対して寛大なのは、どうもこの戸田得志郎の影響ではないかという気がしてなりません。

津原さんのイラスト作業はそんなわけで思わぬところで中断してしまいましたが、また一段と感慨深く製作に励みたいと思います。
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by dersuebeppi | 2007-12-01 06:18